2017-01-06

山口さん

薄暗い待合室でインフルエンザの検査結果を待つ。熱で全てがゆっくりと見える。あ、呼ばれた。行かねば。17番。私の名前を看護師が呼んでいる。17番。17番の診察室。17番。
覚束無い足取りでフラフラと扉にぶつかるようにして17番の診察室に転がり込んだ。美貌の医師が冷めた目でこちらを見ている。
「インフルエンザですね」「一応診ます」「口を開けて」「あーって言って」「すぐマスクして」「前を開けて」「隠さないで」「咳は?」「たんは?」「喉の痛みは」「はい、じゃあ、全部お薬出しておきますね。普通は3日とかなんですけど、来られないので7日分まとめて出しておきますね」「二日間36度代が続いたらもうお仕事とか行ってもらって大丈夫なんで」「しんどいとは思いますけど、次は昼間に来てください」
昼間に病院に行けるようなら山口さんに行っている。
「しつこいようですけど、次は自家用車で来てください」
私、無免許なんだけどなぁ。山口さんはこんなこと言わない。
診察はあっという間に終わった。何やら色々聞かれたが記憶にない。看護師に渡されたクリアファイルを持って会計なんとかの受付とかいう場所へ向かう。多分向こう。だって、灯がついているのはこことあそこだけだから。光のある方に行けば良い。光のある方に……
重くなって行く身体。私の意思とは無関係に速まる呼吸。あゝ、息が、息が、息が、息が、看護師が来る。車椅子を持って来てくれるらしい。息が、私は息ができない。息が、吸ってばかりで、息が、息が、息が、息が、息が、看護師が私を車椅子に座らせる。
「分かっていると思いますけど、こればっかりは落ち着くのを待つしかないですからね。落ち着いて、ゆっくり、鼻から息を吸って」
私はベッドに横になる。制御できない呼吸の手綱を掴もうと必死になる。隣のベッドで見知らぬ誰かが点滴をしている。嫌だ。点滴は嫌だ。怖い。注射、怖い。針、怖い。怖い。怖い。怖い。落ち着かなくちゃ。注射、されるかも。落ち着かなくちゃ。落ち着かなくちゃ。落ち着かなくちゃ。落ち着かなくちゃ。
やっと呼吸が私の制御下へ戻って来た。ゆっくりと起き上がる。ふわふわするが大丈夫。多分。
会計を済ませる。細かいことを言われてもわからない。一番大きなお札を渡す。良かった。旅行帰りで。良かった。時間がなくてお土産を買えなかったから、お土産用に分けていたお金がそっくりそのまま残っていた。隣の窓口では天使のような薬剤師が待っていた。
「これを咥えて大きく吸い込んでください。粉薬が出て来ます」「しんどいですね。もう少し大きく吸い込んでください」「大丈夫ですよ」「休み休みで大丈夫ですよ」「まだちょっと頑張ってください」「大人の方はこれが2セットあるんです」「インフルエンザのお薬はこれだけなので、これを全部吸ってもらえれば楽になるはずですから頑張ってください」「もう一個です。ごめんなさい。頑張ってください」「しんどいですね」「休み休みで良いですからね」「はい、これで全部です。お疲れ様でした」
「インフルエンザの薬はあとは……」
「あ、はい。今吸っていただいたお薬で全部なんです」
「毎日吸うのでは?」
以前インフルエンザに罹った時は確か朝昼晩と粉薬を吸ったような……
「新しくなったので、こちらで吸っていただいた分で全部なんです」
「へぇ、そうなんですか。へぇ」
「はい。こちらが……」
薬の説明を受ける。頭の回らない私のために何度も何度も丁寧に説明をしてくれた。天使。さっきの医者とは大違いだ。
フラフラと病院から自宅へ向かいながら思う。あの医者はちっともこっちを見なかった。矢継ぎ早に質問をする間ずっとパソコンに向かって何やらやっていた。山口さんはそんな事しない。山口さんは……山口さんは……もう居ないんだった……
私はよく熱を出す子供だった。熱が出ると母が私を山口さんに連れて行く。山口さんは病院というより診療所といった方が近い。ドアを開けて下駄箱に靴を入れてスリッパを履く。ドアを開けた瞬間から山口さん独特のなんとも言えない空気が満ちていて、それだけでちょっと元気になる。場違いなほど立派なソファーに深々と腰かければもう八割方治ってしまう。不思議な空間だった。山口さんはもう既におじいちゃんで、私の目の前でライトを振ったり口の中を覗いたり聴診器で胸の方からと背中からじっくり肺の音を聴いたりした後に
「ほら、扁桃腺が腫れてる。ここにグリグリがあるだろう。触ってごらん」
そういって私の喉のあたりを触る。自分で触ってもよくわからないけれど、山口さんは触っただけで喉がどれくらい腫れているか判るようだった。ベッドに仰向けに寝かされてお腹を触られる。くい、とんとん、くい、とんとんといった感じで。私はこれがちょっと苦手だった。だって、くすぐったくて必ず笑ってしまうから。
「ここは痛い?」くい、とんとん「こっちは?」くい、とんとん「こっちも痛くないね」くい、とんとん「はい、痛くない、うはははは」
多分、どこか悪いと痛いのだろう。
「やっぱり。扁桃腺が腫れて熱が出てるだけ。ただの風邪だから、しっかりうがいしなさい」
母が心配事をいくつか山口さんに話し、山口さんが「大丈夫、大丈夫」と母を励ますように言う。私は山口さんの机に並ぶ不思議な器具に興味津々だった。
山口さんはあまり薬を出さない。ほんの二、三日分しか出さない。経過を細かく診て薬を出したいからだ。田舎に帰ったりする事情がある時だけ多めに出してくれた。できるだけ薬に頼らないように。自己治癒力で治せるように。そんな治療をしてくれる人だった。本当に、患者をよく診て手当してくれる人だった。あぁ、そうだ。あの美人な医者は手当はしなかった。診察しかしなかった。山口さんはちゃんと手当してくれたけど。
成長して一人で山口さんに行けるようになると、受付と薬局を担当している奥さんが必ずお釣りを百円多くくれた。間違えてますよと返そうとする私の手に百円玉を握らせると、人差し指を口の前に立ててウインクをした。まるて、一人でよく頑張りました。これはご褒美よ。とでも言うように。私はちょっと戸惑いながらもありがたく受け取ってお礼を言った。
山口さんは今、どうしているのだろうか。中学生ぐらいになるとあまり熱を出さなくなった。あれはいつだったか。久しぶりに風邪を引いた時、山口さんに行かないとと言うと、山口さんはもう辞めたよと、母から言われた。そうか。もうおじいちゃんだったもんな。そう思って、駅前に新しくできた病院に母と一緒に行った。その病院はピカピカの出来立ての病院でなんでもあったけれど、山口さんのあの空気も場違いなほど立派なソファーもなかった。もちろん、百円玉をこっそり握らせてくれるいたずらっぽい奥さんも。それに、未成年は保護者同伴という決まりもあった。ただの風邪なのに。扁桃腺が腫れてるだけなのに。山口さんの言ってたグリグリなら私ももう判るのに。もう一人で病院に行けるのに。
駅前の新しい病院は今でも私のかかりつけ医だ。もう新しくはないのだけれど、行くたびに新しい病院だと思う。あの冷たい女医と違って新しいかかりつけ医はちゃんと患者を診るし、カルテは手書きだし、風邪以外の疾患がないか見逃さないようにしっかり診てくれる。いい医者だ。でも、山口さんには勝てないな。と思う。
私は今も、山口さんに「うがいちゃんとしたか? サボったろう?」と怒られないように、うがいをきちんとしている。おかげさまで扁桃腺も小さくなって滅多に風邪をひかなくなった。山口さんの言う通りだ。
最後に会った山口さんは、もうただのおじいちゃんだった。私の事も覚えていないようだった。けれど、私は覚えている。だから、ちゃんとうがいをする。私が覚えている限り、山口さんはずっと、私の主治医だ。